昭和42年9月11日 朝の御理解
今朝から、日曜日と思ったら、どっこい、ちょっと身体の調子がおかしい。足も少し立つのが骨が折れるようになって、手も、しびれたような感じである。お互い信心をさせて頂いて、おかげを頂かなければなりません。(ざいんの?)人間の上にも、健康の上にも、あー、そのような難儀の中からも、おー、救い助けて頂かなければならんのでございますけれども、なかなか自分の思うようにならんのが、いわば、浮世でございます。思うようにならんのが浮世と申しますよ。確かに、健康でありたいと思いましても、こういうわずらわしい問題からは、早く逃れたいと思いましても、よし、その問題から逃れられたに致しましても、もう、次の難儀な問題が起きておるというようにあるんですね。みんなが、信心を始めるころは、みんなその、自分の願いというか、自分の思いというものが、成就することのために、いー、信心を始めるのが普通でございます。どうぞ、病気が治りますようにとか、どうぞ、このことが解決いたしますようにとか。ね。ですからその、神様は確かにおかげも下さいます。けれども、これは、私が頂いております、御教えの中から頂きましても、特に、分からせてもらわなければならん事は、お願いをして、思うようにおかげを頂いたときには、信心の上では、いよいよ、用心を必要とすると言う事である。ね。ところが、みんなは、お願いしたことが成就致しませんと、神様に力がないように思うから、いうなら、神の権威にかけても、まあ、おかげを見せて下さいますのでございますけれども、そういうように、信心も出来んのに、自分の思うようにおかげを頂いたときこそ、実は、用心が必要なのです。はあ先生、もう、広大なおかげ頂きました。まあ、思うごーとおかげ頂きました。という時には、もう本当に、用心しなければならない時だという事でございます。ね。ところが、段々、信心も分からせて頂いて、お願いをさせて頂きます上でのことが、まあ、夕べのご理解じゃないですけれども、身近に神様を感じさせていただけるようになる。けれどもその、自分の思いとか、自分の願いというようなことに対しては、その、おかげ下さってはいないかのように見える時代がある。いいや、そげなところじゃない、返って、右と願えば左、左と願えば右というように、かえって互い違いになってくるような事がある。そういう風にですね、自分の願いが成就しない時には、いよいよ、私の願いは成就してないのですけども、神様の願いが成就している時と悟れと仰る。皆さんの願いが成就しない。一生懸命お願いをする。一生懸命お参りもする、修行もする。にもかかわらず、自分の願いが、成就しないその時には、神の願いが成就しておる時と悟れと、こう仰る。ね。神様の願いが成就しておると言う事は、どういう事かと言うと、私共に、本当のおかげを頂かして下さろうとする、願いが成就しておるという事なんです。ね。私共も、本当に、今から考えましてもそうですけれども、その大坪さんがおかげ頂なはらん筈はなか。その、あげな信心の、あげな真似は出来んというような、いわば、信心の時代がございましたけれども、もう、そういう時に、もう、ひとっつも願いが成就しない。願いが成就する事というたら、ま、神様事の時だけぐらいな事であった。はあ、実は、大祭でございますから、どうぞ、金銭の上にも、身体の上にも、万事の上にも都合お繰り合わせを頂きますようにと、お願いいたしておりますと、もう、本当に、願い通りのおかげでございましたけれども、こと、自分の事になりますと、右と願えば左、左と願えば右というような状態、ね。そして、その、信じよらす人達がです。あれだけの信心をしござるとに、どうしてあげなこつが起こってくるじゃろかと言うような事が、反対に起こってくるのです。思うようになるどころか、思うようにならんのが、いよいよ、信心だと思うようにあった。ね。けど、今から考えてみると、ああいう時こそ、あの時こそ、神様の願いが、いよいよ成就しておった時だという事を思うのでございます。皆さん、そこんところを分かっていきよると、信心が、有難うなってくる。そして、次に進む。自分の思うている以上のおかげ、言うならば、夢にも思わなかったようなおかげ。自分の願い以上のおかげ。夢にも思わなかったような、おかげが成就してくるときには、もうそれが、本当のおかげじゃとこう言われてある。自分の思う通りの時には、それは、用心せねばいけん。けど、自分の思う以上におかげが展開して来るときには、これが本当のおかげじゃ。そういう本当のおかげを、目指させてもらう。そういうおかげこそが、神様も喜んでくださり、私共も、いよいよ有難い。ね。金光大神お取次ぎをして下さる、金光様も喜んで下さるときであるという事を、分らせて貰う。ね。これほど信心するのにと言う事は言わんで、済むような信心。今こそ、神様の願いが成就しておる時である。そん時の、おー、そういうような時代に頂いたご理解の中にですね。あの、こういう、御簾を編んでるんですねえ。お知らせで頂きましたのに。ここの、私が頂いている口上に御簾を奉れれ言う話なんですよねえ。御道をけがす信心を、おー、心配をさす、信心を汚す。この三つのすですね。御簾を奉れと。ね。そういうような、おかげの、こう御簾が、さっさと出来上がってくる。お願いしても、ひとっつもおかげにならんどころか、反対になって行く。丁度、御簾尾のときに、あの、筒奥が右左に、あの、右左になって行こうが。ね。けども、右左になって行きよるのですけれども、私共には、分からんけれども、この、御簾が出来上がっていきよる時なんです、実を言うたら。そしてこれに、金襴が付いてくる。なったときに初めて、御簾が出来るのであり、御簾を奉る事が出来る。今までは、ね。信心しよったって、どうして、あげん、貧乏しっしゃらるるじゃろうかという時もある。やはり、金光様の信心をけがしておったようなもんであった。私の事を親身に思うて下さる人は、人ほどに、とてもとても、大坪さんがあれじゃいけんと言うて、それこそ、親身になって心配して下さった時代があった。そのためには、自分自身の、心まで汚すような場合もあるのです。そういうのが、一つひとつ、こう、神様が(うすぼらしていけれる?)御簾がお供えできる。そうしたら、こういうような事になってくる前提であったと言う事が分かるのです。初めから、私は、子供のときから、家の子供達は、もうみんな、あの、一番下のとまで、もう、僕は金光様の先生になると言うて、ね。けども、私共の場合はもう、何時、どんな場合であってもです、もう、商売の他は知らんのですから。ね。商売の事だけしか習わなかった。どうぞ、立派な商売人にならせて下さい。そして、大きな御用が出来るような商売にならして下さいという、願いばっかりじゃった。ところが、それどころか、実にこういう事になってきた。いわゆる、思うておることは成就しなかったけれども、思い以上の、いや、それこそ、夢にも思わなかったような事が現れてきた。展開してきた。皆さんの願いでもそうでございますよ。皆さんが、一人ひとり、金光様の先生にどん、ならんなんて事は、ないでしょうけれども、皆さんがですね、願い以上の、それこそ、もう、ほんに神様の働きちゃ、常軌に及ばん、夢にも思わんようなおかげになって来たというような、おかげの頂けれる為にも、ここんところが、分からなければならんのでございます。皆さんが、ここ、十年も御用を頂いておられる方ならば、私の、周辺におきてきた事だけではなくて、私の、この身体の上の部分でも、いろいろお繰り合わせの通りでございましたですねえ。もう十年以上になりましょうかねえ。私が全然、足がなえてしまって、もう、こら、立てないと言う時代がございました。えー、病気に医者に見せれば、胃潰瘍かなにかと申しましたかもしれませんですね。吐血を致しましてからもう、おー、一月あまり、いー、大変身体が弱った事がございました。それでも、やっぱり、御結界は必ず奉仕させて頂きました。昼から休ませてもらうとか。もう何べん、それも上からだけではなくて、上、下から、えー、出血したり、吐血したりする訳ですね。そういう時代もございました。ね。けれども、考えてみると、それが、もう、本当に、常軌に及ばんごと神様のご都合であったことを感じます。ね。私が、足がなえて、立たなかったり、それから、糖尿病であることが分かって、糖尿病の養生をするようになりました。そのころは、どうでも私が、学院にも入らなければならない、本部に一年間行かなければならんという事になった。みんなは、私が行ってもらっては困ると。それでも、これは、行かなければ出来ない。という時に、丁度、それこそ、とってつけたように、糖尿病という病気が起こってくるのである。しかもその、糖尿病という病気が、これはまあ、一生不治の病と言いますねえ。養生さえすりゃ、長生きはするけれども、一生、養生しなければならないというように、ま、難しい病気でございます。ところが、私が、あー、検定試験によって、教師の資格を取るようにならして頂いて、まあ、何かにと、その、言うなら糖尿病である必要がなくなってきたら、最近ではもう、その糖がもう、殆んど出ないのです。そら、尿の検査をしてくださる方達が、もう、びっくりしておられるのです、実際。それでも、まあ、用心してもらわんならんち言うて、皆さんが一生懸命になって下さるんですけれどもです。もう、糖尿病である必要が無くなって来たら、最近、時々私が、足に立つ時、力を、おしっこなさるときにでも私が、手を付いて立つ時には、ちょっと悪いときです。すっと立てんのですから。今朝なんかは、もう、骨が折れるんです。今日は、足だけではない。今日は、手がしっかり握られんのです。まあ、どんなに悪いときでも筆だけぐらいは、こう持てましたけれども、まあ、筆が持てるというくらい。ね。言うならば、誰でも健康でありたいのです。けれども、健康ではない。いわば、足がなえたり、手が動かんようになったり、というような時でもです。どうしてじゃろかという事は決して言わんのです。神様のご都合なのですから。それこそ、神様の願いが、そういう風にして、もっと、もっと素晴らしいことに、成就していく事のために、そうあるのです。ね。だから、そこんところをですね、皆さん本当に分からして頂きますとです。信心が、いよいよ、本当に尊いことである、有難いことであるということが、分かってくるようになります。ね。確かに、この世は、ね。嘘の芝居のセリフじゃないですけれども、思うようにならんのが浮世、親が先だったり、子供が先だったり、ね。思うようにならんのが浮世だと。これは、まあ、普通の相場でございます。これは、世間一般の相場なのです。ね。それが、世間一般の相場だと信心させて頂くのが、そこまでは同じようですけれども、そこんところを信心させて頂きよる時、思うようにならんのが浮世どころではない、思う以上のおかげが頂けてくるようになるという、そういう世界が開けてくるというのが、信心の世界なのです。ね。ですから、そこんところを一つ、本気で、分らせて貰うて。思うように、お願いをして思うようになっちゃいけんというのじゃないですよ。先生、本当に思い通りにおかげ頂きましたというような、おかげを頂くけれども、そういう時には、いよいよ、用心しなければならないんです。これは、まあ、例えばここで、そういう意味合いでならですね。願い事が成就したと。お願いしてから、本当におかげ頂いたというのなら、もう、そら、ほんとにそれこそ、どれだけあるか分かりませんよ、椛目では。だから、その人達は、信心は続いていないでしょうが。もう、おかげを受けただけ。それっきりなんです。それでその人の幸せとは言われんのですから。ね。ですから、その、思うようにおかげを頂いたときこそは、今度は用心しなければいけん。信心も出来んのに、このようなおかげを頂いてという、いよいよ、実意丁寧神信心が出けて行かなければならぬ。ね。けども、思うようにならないというような時であってもです。右と願えば左、左と願えば右というような時であってもです。自分の周囲には、生き生きとした、神様の働きというものを、心にも、身にも、一切の上にも感じれるようなおかげを受けて行くことです、というわけでございます。ね。思うごつならん事ばっかり。もう、数どんもござれりゃ、おんなさるのやら、おんなさらんのやら分からん。というようであっては、そこ、辛抱が出来ません。そら誰でも。けども、この事のお願いは成就せんけれども、終日、神様のこのような働きを頂いておるのだから、いわゆる、昨日の御理解ですけれども、神様任せになられるのです。ね。そこに、お任せしきったところの生活の中からです。ね。思うようにならん時には、いよいよ、神様の願いが成就していきよる時と悟らせて貰うて、いよいよ、お礼をさせてもらって、信心させて頂きよるうちにです。御簾を奉るようなおかげを頂かれる。ね。いわゆる、本当の意味でのこの世は極楽という世界が開けてくるのでございます。ね。皆さん、どうこうあるという事はですね。我が拝むじゃありません、おかげ頂くじゃありませんけども、それは、神様のご都合なのですから。だから、どうぞ、良うならしてくださいというよりもです、本当言うたら、神様の願いが成就しておる時として、お礼を申し上げるべきでございます。ね。そういう風になれたら、いよいよ、私は、有難いと思うですね。どうぞ。